己と常にそこに在るもの
不安や恐れが一つ産まれるたび、人はそれを手放したい深い願いとは裏腹に、どんどん負の感情に近づくもので。
いわゆる波動というが、わたしたちを象る量子は、簡単に行き来する。
己の中にしか無い答えを他者、社会に期待し、攻撃し批判否定を繰り返し、そのたび安堵したかのような錯覚をして、負のループから抜け出せない。
あちら側もこちら側も無いのに、区分けをし、我が身を守った氣になっている。
わたしも、そうだったと思う。正しさは時に軋轢を産む。恐れからくる必死さ。自分が正しいのだから、その脅威から愛する人を守りたいと思うエゴ。こうなったらこうなるを多用し、必死になり、ぎゅっと掴んで離さない。そんな時期もあった。
そのたび苦しみ、悲しみ、まだ起きてもいない事象に頭いっぱいになり、周囲もわたしも決して幸せではなかった。
コロナのこの3年は、対極にあるものとの向き合い方、そこに在るとは何か。影響し合う、波。地味な地道な種蒔きの大切さ。結局のところ、わたしはどうしたい。そんなことを考え実践してきた時間に思う。
正しさを声高に叫んだ時点でそれは決して正義とは呼べず、ただただ不毛なエゴと戦う火種となる。
正しさは、100人いたら、100の正しさがあり、真の平和を望むのであれば、自分との違いを認め合うにほか無い。
対極にある同士のそれぞれの考え方を、あなたはそう思うのか、こちらのあなたはこう思うのだね。
極端に右左に分けず、真ん中であろうとするわたしの正しさもわたしの中であり続けるということだ。
己に問い続ける地味で、けれどとても重要な作業は、他の誰でもなく、大切なわたしの為にしているし、多くの人は実践していることだろう。
心地の良さを望むのなら、違和感の正体を把握し、中のそれを両手で包んでそっと握り、消滅させる。
その地味な作業の繰り返しが、己の機嫌は常に己でとり、心地よく穏やかに生きる力となったりする。
突然のブログ更新。
昨夜の出来事は、周囲が思うよりかなりわたしを消耗させた。
今、重い頭をやっと起こして濃いめのコーヒーを飲みながら、これはきちんと残す、そう思い書いている。
「人が人をジャッジもコントロールもできない。
大前提である。その前提を無視し、一つの情報に踊らされて、あちらが悪いこちらが正しい。
陰陽のバランスを見失い、己のエゴを野放し状態。いつまでやっとる。この戯けが」
昨夜、ある人の話を聞いている最中、吐きそうになった自分に降りた、けれど彼女には伝えなかった言葉です。
まだまだ、そこに居たいであろう人にわたしの言葉はきっと届かない。芽が出るかそれはそのひと次第でしょう。強く望むなら、ね。
承認を外に求め続けても、いっときは安堵したとて周囲が変わるたび傷つき繰り返す。
承認は、誰あろう、己が己にするものだとそう思う。幼い時からそれを実践してきたし体感のそれがあるから、環境がいくら変わろうが人に何を言われようが変わらない。
あなたは愛していますか?愛してくれないと嘆く前に愛せていますか?
くれないくれないと思っているのであれば、あなたが与えていないということ。
わたしには何もないと嘆くのなら、今一度感じてみて。愛は常にそこに在るよ。
冒頭で触れた影響の波は、どちらにも瞬時に反応する。あなたは、どうしたい?
どう、生きたい?
重い頭をふりふりしながら書いたので支離滅裂で(笑)申し訳ねっす!(笑)
読んでくださった方、ありがとうございます。