愛について
愛についてって…笑
久々のブログ更新なのに、
壮大なテーマぶっ込みすぎだな…笑
父が逝ったのは昨年の5月だ。
昨年の4月後半から5月の頭にかけては、
ほぼ記憶が無い。
家族と話せば、断片的に思い出す、そんな感じだ。
荼毘にした時、泣きすぎて氣を失いかけ夫に支えてもらった。
中に入らんとする父を見送るのが辛すぎて、どんどんそこから離れようとふらふらするわたしを彼はガシッと掴んだ。
「しっかりしろ。最期だぞ。ちゃんと送ってやれ」彼はわたしの耳元で力強くそう言った。
父とは、あまり上手くいってなかった。
今思えば、父の言動も行動もなんとなく理解できる。
2歳に満たないで実母と死に別れ親戚をたらい回しにされた、根底にある埋めようの無い寂しさも
それゆえに家族に執着し、妻に母親を求めすぎた歪んだ愛情をね。
ずっとわたしは記憶という過ぎたことに、彼を当てはめ続け、許しとして手放すことが出来なかった。
(詳しくは割愛します。)
死ぬ半年前ぐらいか…それもわたしの問題であり彼の問題ではないと許したのは。
その矢先だった。
倒れてから、2週間足らずで逝ってしまった。
なんて子どもで、未熟な父なのだろうと思い、悩み、彼を許せなかった。
父が逝って、父というひとりの人間を振り返り考えた時、ああ、わたしは彼に愛され守られていた。
目を伏せ、耳を塞いでいたわたしの欠けた部分を、父が逝ったことにより取り除かれた事に愕然としたのよ。
未熟だったのはわたしだった。
そして、後悔した。
いまも、している。
84で逝った父が、最期にしてくれた事は、
大きな愛を残したという事。
年齢ではなく、ひとりの父親として、ひとりの人間として出来る事を示し、逝ってしまった。
だからね、愛を論じた時、父が浮かぶ。
逝って、あとに残るもの、それが愛だと。
それは一つのわたしの体感であり、真実だと思う。
逝った側から言えば、知らんぷりかもしれないがね笑
姿、形は無い。けれど、在る。
後悔したと書いたが、大きな父の愛が今のわたしの一部を形成し歩かせてくれている事は紛れもない事実で、
それも逝ってからわたしが理解できる事だと、そう信じている。
一つの愛について記したくなった。
いま、不安と愛に打ちのめされているであろう友人が、わたしに話してくれた事がきっかけでこれを書こうと思った次第です。
話してくれた友人に感謝します。
読んでくださった方、ありがとうございました。