311〜Vol.20
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娘の福島での担任の先生から安否確認の連絡が入る。当時の先生方の所在もわかり、やっと業務を再開できたと。夫が対応した。
皆、散り散りになっているらしい。まだ連絡のつかない子もいるとのこと。
「命を守っていただきありがとうございます」夫が言うと、先生は泣き出したと言う。
小学校の耐震がやばいのは皆知っていた。だから地震直後はとにかく娘のことが心配だった。それを守ってくれた。それだけで感謝だった。
埼玉に避難した従兄弟が塞ぎ込んでいると聞いたので電車で会いに行く。久々に会って涙が出た。
娘が東電の社員だ。その娘から出た言葉が「地震だから、津波のせいだから仕方ない」「いわき市に住めないかな、いわき市からなら福島第二まで通えるし」…これだ、ここにも東電社員の東電の体質が出た。悪びれない。この娘のせいでは無い。この子個人を責めたところで、それは違う。ただ、立場を考えて物を言えと、そう思った。
原発事故は人災だ。津波の危険性をわかっていながら何の対策もしなかった東電と、それを知りながらも指導してこなかった国による人災だ。40年も経つ古い機械を、大丈夫です、安心です、安全ですと嘘をつきながら自分達の懐ばかりを氣にする企業による人災なのだ。その企業の社員が、「津波のせいだから、仕方ない」と言った。まだあの日から2週間で、いわき市に家を建てる話をしている。…理解ができなかった。夫が前日に解雇されたわたしには、理解できなかった。
従兄弟の嫁が、こちらを氣にした。だが、わたしの顔から笑顔は消えていただろう。
もうこの人たちとは関係のないものになろう、そう思った。
夫に詫びた。せっかく電車で遠くまで会いに行ったのに、嫌な思いをさせてごめんね。
夫は言った「罪を憎んで、人を憎まず。大丈夫だ」
悔しいまま帰宅。
その晩、兄からメール。
「○○ちゃん(夫)、大変だったな。落ち着いたら何とかしてやっから。我慢して待ってろ!!」
涙が出た。お兄に会いたい、お兄に会いたい。
震災の翌日、避難指示が出た日、避難する車ですれ違ったっきり、会っていない。兄は町民をピストン避難させるバスの中にいた。町へ戻るバスの中にだ。兄が心配だった。戻りたい…戻れるかな…望みは捨てきれなかった。
避難先の埼玉の人は言う、戻れないじゃない、二度と戻れないじゃないと。
その言葉がどれだけえぐるかを分かっていないんだ…。そのたび、えぐられ、血が出た。
そうなった人間にしかわからないだろう。
夫が言った「人間の想像力なんてそんなもんだろう。自分がそうなってみて初めてわかる。阪神淡路大震災や新潟の地震の時、自分もそうだろう」
そうだ、わたしは何もわかっていなかった。こうなって初めて、先に被災された方の氣持ちに立てたのだ。
「うん…」と言いつつ「でも地震だけじゃない。地震だけなら町を離れなかった。何の問題もなく、あの家に住めていたじゃない。」「そうだよな…」夫が頷いた。
見えない放射能の危険から命からがら逃げてきて、わたしたちの苦しみがこんなに長期化するとは思わなかった。(2週間。まだほんの序の口なんだけどね。長く感じたのでしょう。)
埼玉で再建の道を探らなければならないのか…?
わたしの勤務先からも何度も連絡は入っていた。わたしは解雇されていない。
自暴自棄になっていたのだろうね、「解雇してください」そう支店長に伝えた。
「あなたが悪いわけではないのに解雇はできない」そう言われた。
良いのか悪いのか…。それから、何人かの上司、同僚から帰ってこいと連絡が入るようになった。(この時のわたしは福島に戻って子育てをするイメージが全く湧いておらず、今は無理だと答えるのが精一杯だった。)
4月になれば新学期が始まる。娘の学校をここに決めていたのもあった。まずは、娘第一だった。
この頃から、娘は避難先の子どもたちと喧嘩をするようになる。自分も福島へ行けば、たくさんのおもちゃや自分の持ち物がある。それが、無い。取りにも行けない。そのイライラと子ども特有の残酷さが娘を傷つけていた。だが、世話になっている。どうしても娘を叱るようになる。わたしたちの部屋に戻って、娘を抱きしめた。ごめんね、あと少しの辛抱だから。
あと少し…。行くところなど、無かった。
続