できること
繋がりを絶たれた後の、あと始末というか、メンテナンスというか。人知れず泣いて、苦しんでいる人の何と多いかということ。わたしは幸いSNSを利用して多くの見知らぬ誰かと繋がっている。それは既に見知らぬ誰かを超えて懐かしい愛おしいあの人になったのだが。
コロナは人と人が当たり前にとってきたコミュニケーションを絶った。親しい間柄になる前の、ファーストコンタクトが何なのかわからない人が多い。前段として、老若男女誰しもスマホを持つのが当たり前で、つい手持ち無沙汰になるとスマホをいじる癖がわたしにもある。昨日友人たちと話したのは、我々40代50代は、スマホなど無かった時代、どうやってコミュニケーションをとってきたかということ。スマホが無いのだから、本で調べたり、氣になる相手がいれば、直接なり手紙を渡して想いを伝えた。電話だって自宅に電話し、親が出ないかとドキドキしたものだ。それが今ではスマホ一つだ。良いのか悪いのか。
わたしは孤独を愛している。孤独であることがわたしだと幼い頃から認識していた。他者と自分を識別し、結局一人であることに安堵していた。今もそんなところがある。かといって、孤独に常に身を置いている訳ではない。そのバランスを無意識にとろうとしているのか、人間がとても好きだ。多くの仲間と語り合い、アホな話(みーはアホだからねw)に盛り上げり、夜中まで笑い転げることも大好きだからね。
繋がる方法がいくらでもあり、自分を愛する人がこんなにいるのだと氣付いた時、とても幸せな氣持ちになるでしょう。やはり、人は一人では生きていけないのだと再確認する瞬間がさ。わたしが孤独であることを大切に思う反対側で常に両手を広げている。これもまた陰陽だなと思う。
話が逸れたが、この(一人では無い)を氣づくことなく、ただ自分の孤独と向き合う人の何と多いこと。スマホで何でも完結できる仕組みを作られ、コロナで遮断され、マスクで表情を奪われ、一人(独り)に慣れ、寂しいと声をあげることさえできない。
悲しくて涙が出た。せっかく人間としてここにいるのに、助けてと言えない悲しさ。
想いは人の数だけある。その想いが、溢れそうになるのなら、ここにおいで。
無理にこじ開けることは決してしないから、話して欲しい。そんなことを思った。
変えるような真似はしない。ただ、あなたは一人ではないと、少しでも思ってくれたら。
そうするには、どうわたしが動けばいいのか、考えずにはいられなかった。
まずは、一言でもいい。話そうよと、思う。話そって。安心して声を発していいのだと思い出せば、あとは彼ら彼女らの中に答えはあるからね。
最初のきっかけ。それをどうしたらいいか、そんなことを考えながら、
今朝は太陽神さんにフラを捧げてきたよ。
まだまだ精進だね。その答えも、まだ出ない。
読んでくれたあなた、ありがとうございました。