あの日

311〜Vol.23

331

妹から4月2日に町田の住宅に入れることになったと連絡が入った。多くの避難者が経験したことなのだが、避難先でのいじめというか、嫌がらせのようなものがあり、震災前とは全く違う関係性で、絶縁となるケースは多かった。わたしの友人は実家に避難したのだが、実家であっても人の世話になることがどんなことか痛感したようだった。10年経過した今でも、両親、実の妹と絶縁状態である。母たちも例外ではなかった。叔母の元々の性格もあるが、母はいまだにトラウマとなっている。思い出して、泣くのだからね。それもあって、妹夫婦は出る準備を急いでくれたのだ。

先の大戦を思い出した。所詮他人事なのだ。それは、責める話では無いのはわかっている。だが、心に影を落とした。兄の耳にも入っていたらしい、電話をくれた。「火垂るの墓じゃないか…。悔しいな、今は何もできない」そう、泣いた。いろんな人がいる。親戚だから、血縁だからといって、常に親切で優しいとは限らないということだ。風呂にも入れてもらえず、ご飯もお腹いっぱい食べることもできず、母が今まで叔母に尽くしてきたものを一氣にマイナスにするような仕打ちだったらしい。

出ることができて、わたしも安堵した。何もできない、動けないジレンマだらけだったが、安堵した。

横浜より、若干距離が近くなるのも嬉しかった。引越し当日、必ず会いに行くと約束した。みんなに会える。

埼玉の叔母と従兄弟は、我々が町田まで出向くことをよく思っていなかった。口を開けば、自分達の再建もしていないのに、お母さんたちの心配してる場合かと言われたし、頼んではいなかったのだが、町内の製造業の契約社員の話を町長の口利きで見つけてきた。だが、夫は断っていた。せめて奥さん(わたし)だけでも働けと言ってきたが、住む所も定まらず、わたしは福島の会社と雇用契約はまだあり、給料も振り込まれていた。他で雇用契約を結んだ場合違反となってしまう。(前職の契約ではそれができない仕事)

叔母が言うほど、簡単ではない。

製造業の契約社員、新しい土地で全てやり直そうという覚悟はなかった。事務的なことも多く降りかかってきていたし、頭は常に心配でパンク状態。

その方法もわからなかったし、まだ、あの日から一ヶ月も経っていない。早く早くと急かされることに違和感を感じていた。

仕事あっての再建。分かる。だが、わたしたちの置かれた状況、考える余裕すらないのもわかって欲しかった。

そして何より、わたしたちは福島を諦めてなどいなかった。頑張って二人共働きでコツコツ貯めた頭金で建てた家がそこにある。望みは捨てていない。元に戻ることはない。だが帰りたい、そう考えることが何故罪になるのかわからなかった。

福島は終わりだよ、帰れるわけないよ、叔母たちは口々に言った。埼玉でやり直すことが最善でそれしか無いのだとね。ここで、この町で、年をとって暮らすイメージがどうしても湧かなかった。

夫は、叔母に言った「福島を諦めてはいないんです。これで仕事まで世話になってしまったら簡単に辞めて福島に帰りますとはいかなくなる。自分のケツくらい自分で始末したい。世話になっておきながらごめんなさい。もう少し時間ください。考えます。」と。

これが後々、ある事件に発展する。

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