あの日

311〜Vol.25

0404

「会津に兄に会いに行ってきます」町田から帰って叔母に言うと案の定怒られた。

「わざわざガソリンをかけて会津なんて遠い所、町田から帰ってすぐ行くの」

どう思われてもいいと思った。もう一人の叔父が前日に夫にしたことで、わたしの中で何かが変わった。

兄に会いたい。家族から一人離れ、過酷な状況の兄の顔を見るまでは安心できなかった。

妹家族と途中のSAで待ち合わせをし、会津に向かった。4月頭、まだ雪が残っているのを想定していなかった。夏タイヤにしたばかり。途中、どこで降られたか忘れたが、ワサワサ降ってきて、焦った。そうだ、会津だった…。

会津とはいえ久しぶりの福島である。嬉しかった。ラジオから聴こえるパーソナリティーも馴染みの声。放射線量を読んでいる。

それが異常に思った。

県内が近づくと自衛隊車両を多く目にするようになる。途中のSAで何台もの自衛隊車両。たくさんの自衛官とすれ違った。目があった自衛官に手を合わせお辞儀をすると、にっこり会釈をしてくれたのを忘れられない。

警察官、自衛官、消防隊員、彼らが命懸けで福島に何度も入ってくれたことを決して忘れない。

わたしの町の隣町では、避難を呼びかける際、パトカーごと濁流に飲まれ、知人の叔父が命を落としていた。

その際乗っていたであろうパトカーは震災遺恨として保管展示されている。

見たことがある方がもしかしたらこのブログを読む方の中にもおられるかもしれないが、ただの鉄の塊と化したそれは、ただただ悲しく恐ろしい。

ギリギリまで逃げず避難を呼びかけ命を落とした方は福島にもたくさんおられる。岩手宮城を含めればもっとだ。その方々に、感謝と祈りしかない。

兄が勤務している場所へ向かう。あいにく職務中であったが、呼び出しの電話をし、来てくれるのを駐車場で待つ。

来た。涙が溢れた。母も、父も泣いている。髭も髪も伸び放題。やつれたように見える。あまり時間がない。けれど会えた。

再会できた。生きていたね。みんな。わたしたちみんな、有難いことに生きていたんだよ。

正直言うと兄の反応はそっけなかった。時間ないからと、手短に挨拶し、仮の職場を案内してもらった。仮の庁舎内は乱雑としていて支援物資であろうカップラーメンが山積みになっていた。

その時の心境を、後から聞いて、涙したのだが、兄はみんなの顔を見た途端、帰りたくて帰りたくてどうしようもない感情が湧き上がったそうだ。

だが、自分には自治体職員としての責務がある。ここで感情をむき出しにして、泣き叫んじゃいけない、そう思って必死に堪えていたと。

自治体職員の中にも色々である。うまく自分の都合よく立ち回って、食べ物、支援物資を手に入れ、仕事をサボる人間。

そんなズルもしたくないし、自衛隊の用意した風呂も、住民の目があるからと自分は後回し後回しにする兄のような人間は、本当にギリギリだったと思う。どこにでもいるが、容赦なく不満をぶつける町民の罵声。

家族が一緒であれば違かっただろう。愚痴る相手もおらず、何人かの同僚と共同生活をしていた。氣が休まるはずがない。

これもあまり知られていないが、多くの自治体職員は、心を病み、病氣を発症し辞めていった。岩手宮城福島。彼らのストレスもまた、震災特有に思う。

兄は、長期の心的ストレスにより、この数年後ある病を発症する。

建物倒壊、津波、火災、それから、心的ストレス。震災関連死は何も、物理的要因だけじゃないという事。

そこもまた、読んでくださる皆さんが知ってくれたら、嬉しく思う。

投稿者

mie.208.1119@gmail.com
はじめまして、みーです Twitterで言葉を吐露し出してからたくさんの出会いがあり、今ここ、ブログに辿り着きました 日々に感謝 出逢いに感謝 https://twitter/208Mie 言葉は言霊 一つでも拾ってくれたら嬉しいです

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