死について
父が逝って三ヶ月。あっという間に新盆だった。亡くなってから、このお盆の期間中、やっぱり思ったのは、わたしは変わっているということ。
死んで終わりではない。言葉面は理解している人も多いだろう。身内を見てもそうだものね。だが真までは分からない。
魂がどこに還るのか、わたしにも分からない。だが、はい、ここで終了とならないのは、魂で理解できていたりする。
わたしの中では当たり前にある感覚も、周囲にしたらおかしな、不思議な話らしく何度も訝しげにされた。
通夜、火葬、告別式。通りいっぺんの風習に従って色々決められた。わたしは長女だが、兄がいる。お嫁さんもいる。基本的には兄が決めるべきであり、あまり口出ししなかったのだが、頼りにされたので裏で動いた。人間一人が亡くなってからどうなるかとは別に、一般的同義的に事は進んだ。
そこで思ったことは、一連の儀式は、亡くなった故人のためではなく、残された遺族の為のものということ。
戒名然り。花のひとつひとつに至るまで、それは故人のためといいつつ、残された人たちが氣持ちの整理に必要だということだ。
わたしは、彼が逝ってから常に彼を感じている。死んでからなお一層力を貸してくれているように思う。
目覚めている、いないでいえば、わたしとそれ以外の家族はこの社会に感じている価値観が違う。見えている世界が全く違う。
コロナに関する考え方然り、見えないものへの感じ方然り。
見えないけれど、あるという存在になった父に対するわたしの考え方。それはある日を境に感じることができる特別な何かではなく、常にそこに在る(八百万の神と同様)。
儀式的に何月何日に来て、帰る、儀式。
そこに安心を覚えひとつひとつ区切りをつけていく事は、悲しみに暮れる家族にとってとても重要なのだと、母や妹を見て、そう思った。
他の家族にしたら、わたしはなんてドライなやつなんだと思っているだろう。常に在る存在に、特別に何かをしようとは考えないのだからね。
これを読んだ人の中にもなんて冷たいのだと思う人もいるかもしれない。
誤解されたく無いのだが、父の死はわたしの中の大きな部分を壊し再生させた。もちろん悲しかったし、倒れてから空へ還ってしまうまでとても苦しかった。
だが、人の死とは、わたしの死生観というものになるのだろうね。そもそも執着しない。いろんなことに。いつからか自分すら執着せずに生きてきた。だから、このみーとしての一生をどこで終えようと、それはそうなっていたのだと覚悟して生きてきたのもあるだろう。
全て、決めてきたのだ。生まれることも、死ぬこともね。だからきっと父もそうだろうと思う、それだけのことなのだ。
なかなか受け入れ難い考えだとは思うよ。まだ悲しみに暮れる彼らにとってはね。
だから口を噤んでいる。理解できない話を並べても混乱するだけだから。
納得のいかない部分も、兄が安心するのならと同意し、わたしなりに支えたわたしのやり方を、誰あろうわたしが褒めようと思う。(父も力を貸してくれたしねw)
読んでくださった方、ありがとうございます。