ひとりということ
ひとりってなんだろうね。幼い頃からひとりになることが多かった。わたし自身は何もしていないのだが、いわゆるミソッカス、仲間はずれにされることが多かった。なんせ目立った。
大人になった今、媚びない、忖度しないと言い切れるわたしだが、幼い頃はそれが何故なのか傷ついたこともあったかもしれない。
今となっては記憶にないし、大きな傷にはなっていないのを感じるので終わったことだ。ひとりってなんだろうね。ひとりで在ることは特になんの問題もなく、むしろひとりで立つ立ち続けることはわたしを強くした。
たくさんの事象の中で大きく飛躍するときは、必ずと言っていいほどわたしをひとりにした。
パワハラという言葉すらない時代、当時の支店長と代理から壮絶ないじめを受けた時も、その経験から、後輩がいじめにあったとき失うものなど何もないと庇い続けた時も。
あの人はああだからこうだからという声に一切耳を貸さず、己の直感だけを信じ前だけ見据えてきたのだ。
今、現在進行形でも嫌な人ってのはいる。どんな環境、どんな世界にもいる。2:6:2の法則。10人居れば、自分を嫌う人が2人。どうでもいい人が6人。自分を好きな人が2人。これを知った時、とても腑に落ちた。
嫌われたらラッキー。自分の目が耳が心が鍛えられるチャンスなのだ。わたしを愛し、好きだと言ってくれる人は必ずいたし、ひとりにされた後に出会うその人は全て運命の人であり、一生大事にするべき人だった。
もし、このブログを読んで人間関係で悩んでいる人がいたら、言いたい。
それはとてもチャンスだよと。
その悩むほどの人間関係の中で、あなたを好きだと言ってくれる人は誰かということだ。その人はあなたが一生大事にすべき人間ということ。
そう…わたしも、これを書きながら思い浮かんだ彼女たちが生涯の友だ。
何か攻撃を受けても、受け流すことがあまり得意ではないわたしは、単純で、よく言えば純粋なのだろう。
その真っ直ぐさが故に起きた事象は、全てわたしの為以外ない。人を見抜く目。目に映る耳にすることが全てではないということ。
攻撃を受けても多くを語りたくないのは、後ろめたいことなど何もない。お天道様は見ておられる。その信念なのだ。結果、見てる見てくれる人は必ずいる。いた、ということ。
わたしの見ている世界は常に優しい。お前は間違っていないよ、そのままお進みと示してくれるのだからね。
読んでくださった方ありがとうございます。